産婦人科関連エントリー
名古屋の産婦人科情報
... ビジネスブログのトータルWEB リンク集に登録されているホームページ、『 名古屋の産婦人科情報 』の紹介ページです。 名古屋の産婦人科情報 名古屋市内にある産婦人科を区別に地図で確認することが出来ます。口コミや評判も http://nagoya.fujinka.info ...

産婦人科予約の変更
JUGEMテーマ: 健康 今日は産婦人科の予約があった(卵巣の確認)が、10日から続いていた不正出血が本格的な生理になり、それがまだ続いているので、外来に電話して19日 ―― 金曜日に変更して貰った。

La culpa / スパニッシュ・ホラー・プロジェクト 産婦人科 [ ...
... Pel〓culas para no dormir: La culpa@IMDb 直訳: 罪 ・ 産婦人科@ぽすれん ・ スパニッシュ・ホラー・プロジェクト 産婦人科@映画生活 スパニッシュ・ホラー・プロジェクトの一作。同プロジェクトについては ...

産婦人科医療の崩壊(いわき市の場合)
... 病院に勤務する産婦人科医の数(できれば、磐城共立病院に勤務する産婦人科医の数)を増やすしかありません。 そのためには、自治体であるいわき市は勿論のこと、医師会や市民の皆様が声を上げて、産婦人科医をいわき市に招請しなければならないと思います。 ...

産婦人科予約の変更
今日は産婦人科の予約があった(卵巣の確認)が、10日からの不正出血が本格的な生理になり、それがまだ続いているので、外来に電話して19日 ―― 金曜日に変更して貰った。 19日の受診が終われば、正月過ぎまで何の受診もない。通院に追われた1年だった。

産婦人科に関する質問
奈良県 林産婦人科 藤田産婦人科 三室病院(産婦人科)の評判を教えてください
奈良県 林産婦人科 藤田産婦人科 三室病院(産婦人科)の評判を教えてくださいもし可能でしたら、かかった出産費用も教えて頂けるとうれしいですまた、このご近所でさらにここはお勧めだよっていう産婦人科も教えて頂けるとありがたいです皆様、
西宮市内の婦人科・産婦人科
ですが、西宮市(阪神沿線)でいい婦人科(又は産婦人科)を教えて下さい。婦人科のことをよく知らないのですが、産婦人科でも生理不順の相談などに対応してもらえるんでしょうか?もし、婦人科に生理不順のことで相談されたことの
婦人科か産婦人科か
でいて、婦人科に行こうと思ったのですが、地元には婦人科が少なく、産婦人科のほうが多いんです。婦人科の評判もよくわかりませんし、産婦人科なら評判がいいところを知っています。産婦人科へ行っても
婦人科と産婦人科の違い
婦人科と産婦人科の違いを教えて下さい。生理不順、不妊治療はどちらを受診したら良いでしょうか?今、生理不順で婦人科に通ってますが、長い目で見て婦人科では産婦人科に比べ、いろいろな治療はしてもらえないのでしょうか
福島県須賀川市の産婦人科を探しています。
ました。早速病院に行こうと思い、ネットで産婦人科を検索しましたが、情報が少なすぎて困っています。初めての妊娠ですので何も分かりません。産婦人科情報教えて下さい。よろしくお願い致します。清水産婦人科小森山産婦人科医院公立岩瀬
産婦人科旅行記
中国(洛陽・上海)ツアーに医者として添乗(by 空飛ぶドクターさん)
【あっさり初仕事】
2008年9月15日から19日まで、中国本土(洛陽と上海)へのツアーへ行って来ました。ついに添乗医師としての初仕事です! 仕事として、海外旅行に行くのが私の長年の夢でしたが、あっさりと実現しました。ある高校時代の同級生からの紹介です。ほんの一ヶ月前に催された大分市での同窓会で、顔見知り程度の同級生にも宣伝を兼ねて名刺をどんどん配りました。名刺には、職業として海外旅行医師添乗サービスと書いています。それを見て、出発の2週間前になって、電話がありました。ある社長さんが、お得意様招待旅行に一緒に行ってくれる医者を探しているという由で、もちろんすぐに承諾しました。彼女は依頼主の社長さんと家族ぐるみの付き合いのようでした。後で、社長さんから聞くところによると、社長さんは自分の主治医に仕事を休んで一緒にツアーに行ってくれる様に以前に頼んだことがあるけれど、断わられたそうです。当然です。普通の医者にはそんなことはできません。私自身は、この日のために3年前から非常勤医師(フリーター医師とも呼ぶ)になり、長期の休みが取りやすい体制をずっと取っていたのです。ですから、急遽その間の仕事を全てどたキャンして、初ツアーの仕事を受けたのです。正直、「招待旅行」というのは自分の想定外でした。
海外旅行は50回以上のベテランの私もお金をもらって海外に行くのは初めてです。お金をもらわなくても、無料で海外に行ったのも二度だけです。一度は、20年以上も前に高校留学のAFSのボランティアとして、シンガポールへタイ人と日本人の高校留学生の現地での飛行機の乗り換えの世話と、最終的に日本人と一緒に帰国した仕事でした。二度目はつい最近、メディカル・ツアーの視察のため、マレーシア観光局の招待でクアラルンプールへ行って来ました。
その会社は大分では結構有名な中小企業でした。仕事上のお得意様に案内を出しているようでした。福岡市在住の私にとって、ちょうどいいことに福岡空港が起点のツアーでした。大手の旅行会社に委託しているので、私の分の手配も簡単でした。面白いことに、ホテルでは添乗員と同室でした。添乗員をやってもいいくらい旅行好きの私にとっては、むしろ歓迎でした。行き先は中国本土で、私にとっては初めてです。香港、澳門(マカオ)には行ったことがありますが、気楽に貧乏旅行ができる普通の国ではない中国本土にはあまり興味がありませんでした。しかも、中華料理はそれなりにはおいしいとは思いますが、シンガポールやマレーシアはもちろん、世界中のチャイナタウンで、ちょこちょこ食べているのであまり執着心はありませんでした。イタリア料理ほどの執着心はありません。でも、何となく初仕事は中国本土になるような予感がしていました。まさか当たるとは思いませんでしたが。
【まずは洛陽へ】
福岡空港では、出発前に招待客同士と招待会社の社員の自己紹介があり、私は最後に同行する医者であると自己紹介しました。招待客には、中小企業の社長さんもだいぶいました。ですから、そんなに高齢者はいません。全部で30人程度です。今回は、行き先が中国なので前もって添乗員経由で、自己紹介と下痢の予防についてのパンフレットを全員に送っていました。福岡空港からは中国東方航空で上海浦東国際空港へたったの1時間半で着きました。頭ではわかっていたものの、羽田空港までの距離です。近いです。時差も1時間のみ。空港のレストランで最初の食事を取りましたが、せっかく医者の私が同行しているので、意図的に医学的な雑談をしました。下戸の私でも知ってる青島ビールで乾杯した昼食後、バスで国内線専用の上海虹橋空港へ移動し、今度は中国南方航空で鄭州へ。ところが、台風のせいか雨、風がひどく機内で延々と待たされました。予定より3時間ほど遅れてようやく鄭州空港へ着きましたが、それからバスで2時間かけてようやく洛陽のホテルへ着きました。現地のバスガイドはかなり日本語が上手なのですが、男の先生に日本語を習ったのか、「〜けれども、」という口癖が印象的でした。
ホテルのレストランでは、早速のウェルカムパーティです。音楽演奏付きです。決められた席で隣の人の名前を読んでいたら知り合いの名前と一字違いで面白いなどとのんきに構えていたら、よく考えたら会社名の名字の社長さんでした。少し話しをしてから気づき、ちょっとあせりました。社長さんは一足先に現地に来ていたのでした。でも、なかなかユーモアもありそうで第一印象からいい感じでした。
その後、二次会のカラオケの部屋に移動しましたが、若い中国人ホステスが何人もつくものの、彼女等は日本語もできないし、英語もできない。だから私は中国本土にあまり興味がなかったのです。片言の英語も通じない、稀な国です。携帯電話が鳴り、社長さんから「本部」に集合ということで別室に呼ばれ、日本語のできる中国人の女性社員2人と男性社員1人と社長さんとで楽しく会話しました。
翌朝は、ホテルの目の前にある巨大な公園、牡丹公園を散策しました。この洛陽の町は牡丹で有名とガイドさんから聞いています。さすが中国です。朝から、太極拳をやっている人がたくさんいます。一部、バドミントンをしている人々もいます。後で、ガイドから社交ダンスを踊っている人々もいると聞き、翌朝確認すると確かにいました。仕事とはいえ、今回はツアーですので私の好きな気ままな時間はあまりありません。朝の散歩は貴重な時間です。少し歩き回ると普段だと気になる庶民的な食堂があります。いつものように物価チェックです。麺類が3〜5元(1元は約17円)で、隣のパン屋さんで一個2〜3元で菓子パンを売っています。安心しました。というのも、上海国際空港では、いくら空港とは言え、コーヒーが一杯40元と書いていてビックリしたからです。やはり、中国の物価はこんなもんでしょう。ついでに、紛らわしいのは中国語で「元」のことを Yuan と書くらしく、略して \、つまり日本の「円」と同じ略号なのです。何の略かわかりませんが RMB とも表記するようです。
近くに洛陽牡丹女子医院と大きく書いたビルが見えます。病院だと思います。中国人に聞くと、必ずしも産婦人科だけではなく、患者が女性専門の病院のようです。バスで移動中に、整形外科、形成皮膚科と書いた女子医院もあり、何となく納得しました。ちなみに、男子医院という看板もあり、性病とも書いてあり、泌尿器科医の私には複雑な心境ですが、男性患者専用の病院もあるようです。
【洛陽観光】
さすがにツアーですので、移動は全てバスで、しかも現地のガイド付きです。個人旅行の多い私にとっては新鮮です。大きなバス2台に分乗しているので、ゆったりしています。しかも、社長さんの配慮で乗る度に軟水のエビアンのミネラルウォーターのペットボトルが配られます。本当かどうか定かではありませんが、この国ではペットボトル入りの水等でも、注射器で生水を入れたりするので油断できないそうです。しかも社長さんは軟水と硬水の区別もよく知っていて、日本人には下痢しやすいカルシウムやマグネシウムの多い硬水は避けているのでした。ツアーというのは、私のように好きな所へ好きな時間に行けないのですが、決まった所に連れて行ってもらえて、食べるところも決まっているので、楽といえば楽です。でも、やはり団体行動なので私の感覚では無駄な時間も多いです。
バスは山の麓へ向かい、いつのまにかテレビや映画でよく見るような少林寺拳法をやっている子供たちがたくさんいる学校を通過しました。おそろいの服(制服?)を着ています。いかにも中国の光景です。本来は空気も相当きれいなはずのこんな山の麓でも、残念ながらスモッグで視界はあまりよくありません。喉が痛くなるマカオほどひどくはありませんが。バスの中では、前日の中華料理がうなぎかへびかで盛り上がりました。日本人の我々がへびだろうと言っても、何故か中国人のガイドや中国人の会社の参加者はうなぎだと言い張るのです。まぁ、鳩だのカタツムリだのさすがに色々な食材が提供されました。中国では、鳩は食べ物らしく誰かが指摘していましたが、どこに行っても鳩が集まって来るのを見かけませんでした。恐るべし、中国!
昼食は少林寺での精進料理でした。これは、日本の京都のような大豆等を上手に料理し、見た目も味も本物の肉や魚のような繊細な料理と違い、いかにも中国で imitation という言葉がぴったりのしろものです。しかも大しておいしくもない。その後、中国最初の仏教寺院とやらの白馬寺へ連れていかれました。日本の寺と大して変わりませんが、線香が値段に応じて馬鹿でかいのにはビックリしました。途中で一人が私の所へやって来て、頭痛がするというので準備してあった鎮痛剤を渡しました。
夕食はすぐ目の前の牡丹城ホテルでの広東料理ですが、中国の交通事情で、歩くと危険ということでバスでの移動です。ホテルの横文字の名前が peony で、ここの名物の牡丹の英単語を何故かここ中国で学習しました。昨日と同じ音楽隊だけでなく、今晩は舞踊団も来ていました。いつの時代のか、中国にしてはへそ出しルックの舞踊もありました。まだ2日目ですが、脂っこい中華料理が続くので会社が準備した日本から持ってきたソーメンが食卓に出ました。大好評でした。下戸の私には関係ありませんが、社長さんの気遣いで日本からたくさんの焼酎や日本酒も持って来ていました。私は添乗員と同じ部屋ですが、彼は毎晩打ち合わせらしく遅くまで部屋に帰って来ないので、気にせず先に寝ていました。朝も早いし、やはり添乗員は大変なようです。私は添乗員ができるくらい旅行が好きで旅慣れていますが、実際に添乗員をするのはしんどそうです。
3日目は午前中に三国志の関羽の首がある関林堂を訪れ、中国三大石窟の一つ、龍門石窟(世界遺産)を見学しました。一人、胃が痛いという人がいて、薬を渡しました。ところが、肝心の私自身の下腹がおかしいのです。痛みまではないですが、下腹がぢかぢかして明らかにおかしい。便も下痢まではいかないものの、軟便で少し近い。今回は、接待ツアーに同行しているので私としてはいつも以上に変なものは何も食べていないのに、軽い細菌性腸炎のようです。慌てて、患者(お客?)さん用に準備したビオフェルミンとパンラクミンの2種類の乳酸菌製剤を一日三回飲み始めました。おかげで何とか本格的な下痢は免れました。恐るべし、中国!
今回のツアーは、社長さんらが下見までしているらしく、悪名高いトイレも全て水洗トイレでした。それでも、トイレットペーパーがないところや、昔懐かし仕切りのない立小便トイレもあり、水圧が低くて流れが悪いらしく、トイレットペーパーやティッシューはくず入れに捨てるようになっていたりしました。尿や便を拭いた紙を捨てるくず入れがあるのです。男女共同のトイレでは、血の付いたナプキンまでむき出しで捨てていました。さすが、中国人女性は上品です。紙を準備していなかった私は他人からティッシューをもらいトイレに駆け込みました。
この日の昼食は洛陽料理ということでしたが、今一つでした。でも、今回も会社の準備したお茶漬けや、梅干が好評でした。梅干は味覚的に口がすっきりするし、下痢の予防にもなります。
【大都会、上海へ】
来る時と違って、時間的にちょうどいいフライトがあるようで、洛陽市内の空港から直接、上海虹橋空港へ行きました。私は世界中の空港へ行きましたが、この洛陽空港は記録的に小さな空港で印象的でした。空港の駐車場があまりに小さく、一つのちょっとしたビルの規模です。フライトも一日に数便のようです。もちろん、目の前の飛行機までは地上を歩いて行きます。上海でのホテルは花園飯店ですが、英語名 Okura Garden Hotel でわかるように、日系のオークラホテルです。テレビではNHKの国際放送も見れます。ここでは、さすがにバスでなく歩いて近くの錦江飯店へ行き、夕食に上海料理を食べました。さすがに上海は都会で信号もあり、交通ルールが守られているようです。ここでも、二人の二胡奏者を呼んでいました。気のせいか、都会の上海のこのレストランが一番おいしく感じました。洛陽は田舎料理だからと言う人もいました。
翌朝は、ゴルフ組と市内観光組に分かれました。私は、数が多い市内観光組に同行し、豫園、外灘(ワイタン)、そしてオープンしたばかりの百一階立ての森ビル、正式名は上海環球金融中心の展望台へ登りました。悪趣味なことに、展望台の一部は床がガラス張りで下が見えます。恐いです。ビルの形はまるで栓抜きのようで、あまり好きではありません。隣の昔からあるテレビ塔のほうが、途中が二ヶ所球状のタワーで絵になると思います。昼食は豫園の有名な小篭包の店、ディンタイフォンで食べましたが、私にはそんなにおいしいとは思えませんでした。バスの中で、降圧剤を内服中の人に頼まれ、血圧を測ると本人の自覚通り、93/55 とやや低めで下がり過ぎのようでした。すると、連鎖反応で計ってくれという人が現れます。一人は 154/90 と高血圧でした。もう一人は、114/54 と正常でした。
一端、ホテルへ戻りゴルフ組みと合流して夕食の「さよならパーティ」へ四川料理を食べに行きました。最後の夕食ですが最高でした。元々、私は中華料理の中では辛い四川料理が一番好きです。ここの激辛の麻腐豆腐はシビレながらおいしかったです。この日は音楽演奏こそなかったものの、最後に道化師が現れ、覆面の表情の早変わりの芸を見せて楽しませてくれました。この日の招待客の挨拶で、こんなに楽しい旅行は初めてだと感謝していました。そして、ソーメンやお茶漬け、ペットボトルの手配、はたまたお医者さんまで同行するという社長さんの気配りに感激していました。
その後、有名な上海の夜景を見にナイトクルーズへ昼間行った外灘の黄浦江(ファンプゥジャン)へ行きました。夜景でも、森ビルよりテレビ塔のほうが照明もきれいでした。酔った勢いであるお客さんから、先生はドクターでも薮医者じゃろうと言われました。別に気にはしませんが、さすがに自分で「空飛ぶ薮医者」と名乗るのもなぁ、などと考えていると、「空飛ぶ町医者」のほうが自分のイメージに近いかなと思えてきました。ツアーの短期間とはいえ、病気に限らず普段から接していて、いざとなったら診察する、そんなイメージです。
その帰りバスに乗ろうとすると、気分の悪い人がいるということで、慌ててもう一台のバスへ行きました。顔色が悪いので急いで血圧を測ると正常でしたので、近くの席で様子を見ていました。幸い、バスがホテルに着く頃には気分も良くなり、顔色も良くなっていました。本人はたばこを吸いたいくらい元気になったと言うので、たばこは止めときなさいと言おうとしたら、すでに吸っています。不良患者です!でも、仕方がないので黙っていました。世の中、こんなもんです。
翌朝は、バスで駅へ移動しリニアモーターカーに乗ると、10分もかからずに浦東空港へ着きました。本当は430kmくらいのスピードが出るらしいのですが、朝は何故か最高速度を300km程度に抑えているようです。こうして初めての医者としての添乗旅行の仕事は無事に終わりました。ほどよい患者が出て少しは役に立ったと思います。
後日談ですが、今回は豪華ツアーに同行したので私自身常にご馳走を食べ、帰国すると5日間で3kgも体重が増加していました。いつもなら、それでも1〜2週間ですぐに元に戻るのですが、中華の油が強烈なのか中々元に戻らず、本格的に食事制限してようやく1ヵ月後に元に戻しました。やはり、中国は普通の国ではないようです。
(「機内にお医者さんはいませんか?」空飛ぶドクターの海外旅 行と健康管理、悠飛社、1,470円 好評発売中!)
戦争証拠博物館からTuDu病院へ(by Hana Hajimeさん)
5月5日(月)
朝、K下さんとホテルの向かいの路上にテーブルを出しただけの店でフォーを食べようと下に降りたら、ちょうど葬儀の行列に出くわした。こっちの葬式はこんな早くにやるのかと驚いた。まだ、7時前だ。それに、ミニブラスバンドのような楽団が後ろについてにぎやかに演奏している。先頭に白装束の若者、その後ろに同じく白装束の女性が二人いて、その後ろは紫色のズボンに灰色の上着を着た老女が立っている。どうやら、亡くなったのは一家の主で、長男が先頭に立っているようだ。先頭の若者の手には、白地にピンクの花模様の壺、そして、その壺には50センチはありそうな蝋燭が立てられている。日本の霊柩車と違い、2tトラックの荷台に赤い支柱が立てられ、その上に赤い屋根がしつらえてあり、赤と金などの派手な色の装飾品で飾られているという実に派手なトラックである。そこに、金と赤を基調とした棺が運ばれてきて乗せられる。トラックがゆっくりと走り、その後ろを葬儀に参列した親族と思われる人たちが歩いてついていき、さらにその後ろをブラスバンドが音楽を演奏しながら進んで行った。
葬列が行き過ぎてから、フォーを頼み、歩道の上のにわか屋台で食べる。フォーの出汁は牛骨から取ったものと思われるが、コリアンダーなどの香辛料が入り、ミントの葉などをのせるので、牛骨の臭いは感じない。肉と、玉ねぎ、刻みネギ、ワケギの白いところがのせてある。テーブルの上にミントの葉やモヤシなどが置いてあり、好みでのせて食べるようになっている。味もテーブルの上の酢やチリソース(?)、ニョクマムなどで調節して食べるのである。
僕はチリオイルのようなものをたらしていただいた。ピリリとした辛さのパンチがきいてうまい。
今日は、今回の平和ツアーのメインテーマである戦争証拠博物館とTuDu病院訪問が予定されており、8時にホテルのロビーに集合。女性陣の要望で、朝飯にフォー食べようということになっており、S籐さんの案内で、ベンタン市場の西側にある、クリントン米大統領が立ち寄ったというフォーの店に行き、おもいおもいに注文した。僕は朝早くフォーを食べているので、チキンスープカレーとフランスパンを頼んだ。K下さんは、クリントン大統領が食べたのと同じフォーを食べている。
スープカレーにフランスパンを浸して食べる。香辛料の利いたカレーで、日本のカレーとよく似ている。あっ、違うか、日本がカレーという食文化を輸入しているんだもんね。こっちの方が先祖だ。チキンの骨付き肉とジャガイモ、人参が入っている。具材だってほとんどかわらない。好みの味のカレーがパリパリのフランスパンの皮を柔らかくし、パンのうま味とカレーのうま味が合わさってとても旨い。大いに気に入った。
ここから、戦争証拠博物館まで歩く。北に向かって大きな通りを3つほど越えると両側が公園になる。背の高い並木が両側に植えられ、そこだけ、空気がきれいな気がする。公園の花壇に鶏頭や向日葵といった花が咲いている。日本でいえば夏の花が今まさに真っ盛りなのだ。その公園を抜け、さらに大きな通り越え2本目を右折(東に入る)してしばらく行くとめざす戦争証拠博物館に到着。入館料15,000ドンを支払い、一時間ほど館内を見学する。
一ノ瀬泰三、沢田教一、石川文洋など日本人の従軍カメラマンの写真がたくさん展示してあり、一ノ瀬泰三が使っていたNikonFのパネルが展示してあった。NikonFのファインダー側なんだけれど、レンズ側から銃弾が入りファインダー側に抜け、穴があいている。一ノ瀬がカメラを構えているときだとしたら、間違いなく即死だな。一ノ瀬は、1972年カンボジア入国以後、クメール・ルージュの支配下に有ったアンコールワット遺跡への一番乗りを目指しており、1973年11月、「地雷を踏んだら“サヨウナラ”だ」と友人に言い残し、単身アンコールワットへ潜入した。そして、そのまま消息を絶つ。10年たった1982年、一ノ瀬が住んでいたシェムリアップから14km離れた、アンコールワット北東部に位置するプラダック村にて遺体が発見され、両親によってその死亡が確認されたのだ。その後、ポル・ポト派により捕らえられ、わずか26歳で処刑されていたことが判明。壮絶な人生だな。
沢田教一の『自由への逃避』を使ったポスターが掲示してあった。実物はなかったが、彼は、この写真でピュリッツァー賞を受賞し、一流従軍カメラマンの仲間入りを果たした。しかし、その沢田も『自由への逃避』の5年後、カンボジア戦線を取材中に死亡した。石川文洋は戦後も生きて、現在もフリーカメラマンとして活躍している。
彼らをベトナムへと向かわせたものは何だったのか。沢田教一は青森生まれ、石川文洋は沢田の2歳年下で沖縄生まれ、一ノ瀬は石川の生まれた9年後佐賀県に生まれた。いずれも辺境の地に生まれたという共通項を持つ。もちろん、ベトナム戦争に対する様々な思い、平和を願ったり、民族独立運動だとか、ジャーナリスティックな精神の発露が大前提だとして、辺境の地に生まれたという中央に対する劣等感、一旗あげてやろうという野心、そんなハングリー精神が底流に流れていたのではないか。そうでなければ死者にカメラを向けることなどできないのではないか。僕にはそのように思われた。
枯れ葉剤を浴びた女性から奇形児が多く生まれている。無脳症、結合双生児、そんな生きることができなかった命が、ホルマリン漬けされている写真。中村悟郎の『母は枯葉剤を浴びた―ダイオキシンの傷あと』で見たことがあるが、それが、半切、全紙サイズで展示されている。僕には正視できない。心が痛い。
また、コンダオ監獄のタイガーケージが再現されていたが、なぜ、人はこんなに残酷になることができるのか、僕には理解ができなかった。展示物を見ているだけで疲れ果て、中庭の売店でコーラを買って飲みながらボーっとしていたら、K下さんがやってきた。
「見ているだけで疲れてしまいますね。僕は、こういうのは苦手です。」
「そうやな、かなり衝撃的だからな・・・。」
日本の博物館でもそうだけれど、土産物売り場があって、若い女の子が一人で店番をしていた。その売店に女の子を冷やかしに行こうと、店先に回り込む。彼女の写真を撮ったり、K下さんに一緒に写真を撮ってもらったりした。そして、
「メールで送ってあげるから、アドレスを教えて。」
「●●●@●●●.●●●」
僕は、日本語のわからない彼女とお互いに片言の英語で
「安くして」
「それは無理」
というようなやり取りを楽しみ、結局、1,000ドン値引きしてもらって、赤いい帽子を買った。
10時から博物館の中で、副館長のバンさんと、コンダオ監獄の生き残りの小柄な初老の方と懇談する機会を得た。通訳が上手くないので、細かいところはわからなかったけれど、
「私が今日を生きることが、アメリカの戦争に反対しベトナムの平和を実現する意思表示になるという信念が、私の監獄生活を支える全てだった。」
と語られたことに大きな感動を覚えた。コンクリートのベッドに足枷をされ、まっすぐに延びることもできない拘束された状態で、拷問の恐怖、外界との遮断、精神的にも肉体的にも拘束された不自由な生活。食料も満足に与えられず、解放されたときは一人で立つこともできなかったという。心が折れたときに、人の尊厳のある生は終わる。そんな監獄の生活を心が折れることもなく生き抜いた強さ、僕は素直に心を打たれ、大きな感動を覚えた。
ある種の心地よさを感じながら博物館を後にし、いったんホテルに戻り、ホテルの近くのベトナム料理の店にそろって昼飯を食べに行く。僕は野菜などが入った卵焼きと茄子の煮物を頼んで2階の指定された席に着く。混雑した店内で、それぞれが指定した料理を間違いなくテーブルに運んでくる。当たり前といえば当たり前だが、その手際の良さには脱帽だ。S藤さんが、
「ビールのいる方?」
僕は驚いて、
「これからTu Du病院に行くんですけど大丈夫なんですか?」
「酔っぱらわなければ大丈夫です。顔が赤くなったり、酔わない方は大丈夫ですから・・・手を挙げてください。」
僕とK下さんを入れて6人が手を挙げた。333ビールが出てくる。ベトナム料理を食べながらビールを飲む昼下がりのひと時、こういう時間が幸せだね。ビールを2本飲んで、いったんホテルに戻り、タクシーに分乗してTu Du病院へ向かう。
Tu Du病院は、南ベトナムの産婦人科のセンター病院で、ベッド数は1,000床、外来患者数は1日3,000人にのぼる。しかも、ベトナムでは患者さんに家族が付き添ってくるのが一般的で、2〜3人は付いてくるのだそうだ。ということは、仮に患者さん一人に平均二人付いてくるとすると、入院外来併せて4,000人の患者数だから8,000人の付き添いがいるっていう勘定になる!患者さんとその家族で1万人を超えるやないか。ここだけで一つの町やな。どうりでやけに人が多いと思った。
正門をくぐると、中央が広場になっており、周りに10余りの建物が建ってい、木陰には多くの人たちが涼んでいる。通路にそって右方向に歩いていくと、左手に売店があり、店頭には色とりどりの果物が並び、ジュースを売っているし、その向かいの建物の一階は大衆食堂のようになっている。壁はなくオープンテラスのようになってい、天井に大きな扇風機の羽が回っている。20〜30ほどのテーブルがあり、セルフ・サービスのようで、厨房カウンターで料理を頼み、お金を払い自分でテーブルまで運んで食べている。その食堂の隣が、障害児学級のある特殊病棟の建物だ。その入口で通訳と待ち合わせており、しばし休息。
そこにドクさん降りてきて、
「S藤さん、こっちです。」
と声をかけてきた。
「通訳の方と待ち合わせているので、来たら一緒に上がります。」
とS藤さん。日本の真夏のようなジリジリと降り注ぐ陽射しと闘いながら待つことしばし、通訳の青年がやってきたので一緒に階段を上がる。3階の冷房の利いた会議室に通され、タン先生と懇談。枯れ葉剤の影響で子孫の代まで大きな影響が出ていること、枯れ葉剤が如何に非人間的な兵器であったのかなどの話を聞いた。懇談には、ドクさんも一緒に参加していた。結合双生児として生まれ分離手術をし、ベトさんは残念ながらお亡くなりになってしまったが、ドクさんが元気にこの病院で働いていることが嬉しかった。
ここから少しお勉強の時間。和歌山大学教育学部教育実践総合センター紀要 No.14(2004)をひも解いてみる。「ベトナムの障害児教育における現状と課題」と題する、江田 裕介、森澤 允清、井上 真友子の3人の署名のある論文が掲載されている。この中から少し引用する。
「ベトナム戦争の間にアメリカは、ベトナムの小さな国土の上に 785 万トンの爆弾を落とした。この爆弾の量は、第2次世界大戦中にアメリカが全世界の戦場で使用した爆弾 205 万トンの 3.8 倍に相当する。またアメリカは、7200 万リットルの枯葉剤を南ベトナムの森林や農村へ散布した。散布面積は 170 万ヘクタールで、南ベトナムのジャングルの 20%、マングローブ森の 36%に及ぶ。枯葉剤を散布した目的は、第一にベトナム解放軍の隠れているジャングルを消滅させること、第二に農作物を汚染し食料として役立たないものにすることであった。この枯葉作戦は『ランチハンド(草刈り人)』と呼ばれた。アメリカが用いた枯葉剤は、ジクロロフェニキシ酸(2,4-D)と、トリクロロフェノキシ酢酸(2,4,5-T)という2種類の農薬の混合物で、『エージェント・オレンジ(オレンジ色の使者)』というコード名で呼ばれていた。これらの農薬は、もともとアメリカ国内でも除草剤や殺虫剤、木質植物の成長調整剤などに使われていたものである。日本でも除草剤として用いられていた。アメリカは、その他にも「ホワイト」「ブルー」「パープル」「ピンク」「グリーン」といったコード名で呼ばれた多種の枯葉剤をベトナムへ散布した。
この枯葉剤にダイオキシンが含まれていた。一般に誤解があるようだが、枯葉剤はダイオキシンそのものではない。ダイオキシンは、枯葉剤の化学合成の製法上に混入する不純物質である。ダイオキシンの正式な名称は「ポリ塩化ダイベンゾダイオキシン」といい、理論的には 75 種類が存在する。毒性は塩素の結合の仕方で異なり、ホルモン系に作用して生殖機能や免疫機能を冒すことや、催奇形性、皮膚障害、内臓障害、発ガン性など多様である。そのなかでも 2,3,7,8- ダイオキシンの毒性が最も強いといわれる。エージェント・オレンジのダイオキシン濃度は、米空軍の資料によると 1.98ppm であったとされる。1958 年、ウサギが極微量のダイオキシンで死んだことがドイツで報告された。50kg の人間におけるダイオキシンの致死量は 0.1mg で、青酸カリの 1,000 倍、サリンの 10 倍の強さである。また、サリンは空気中の水蒸気にさらされると無害になるが、ダイオキシンは 1,300 度の高温でしか高速分解しない。極めて安定した物質で、水に溶けにくい性質をもち、最近では環境ホルモンとしての側面も知られるようになった。消化器、皮膚、肺から吸収され、血流によって人体の各組織に運ばれた後、主として肝臓と脂肪に蓄積される。人間では脂肪により多く蓄積され、代謝されにくい。ダイオキシンの排泄は、人間では遅く、2,3,7,8-TCDD の半減期は、実験動物であるネズミの 100 倍以上長いといわれている。
通常の 10 倍以上の濃度で 7200 万リットルもの枯葉剤が散布されたベトナムでは、広範囲で森林や耕作地が壊滅し、79 万人が中毒になり、多量の家畜も死んだ。しかし、枯葉剤の被害は環境や生態系の破壊だけでなく、その後も長期に渡って人体に影響を与え、南ベトナム住民だけではなく、戦争の終結後に北部へ帰還した兵士や、ジャングルへ派兵され被曝したアメリカ兵士、韓国兵士などにも、今日なお生命や健康への被害が続く。
ダイオキシンの影響と考えられる最も深刻なものは、両親の被曝による胎児への影響で、死産、流産、精神神経異常、結合双生児や無能症などの先天性障害の原因となることである。」
ダイオキシンなどの環境ホルモンの影響は、日本やアメリカなど高度に発達した工業国においても同じ問題が潜在しているし、ベトナムにおいても、急速な産業構造の転換と、公害問題を引き起こした日本の高度経済成長期のような、経済の発展を第一義的に考える状況があり、過去の被害とは異なる形で再びダイオキシンの問題が忍び寄っている様に思えて仕方がない。
1時間ほどの懇談ののち、障害児学級と標本室を見学させてもらった。障害児学級の方は、障害を持って生まれてきた多くの子供たちが生活しており、彼らの陽気さに助けられたが、標本室は、なぜこんなことが・・・語る言葉もない。O保さんやK下さんが写真を写されていたが、僕にはカメラを向けることもできなかった。母親のおなかの中で生を得ながら生を否定された存在、非人間的な兵器、それらのことを語るだけで大部の本が書けそうだ。2時間近い時をこの病院で過ごし、人間についていろいろなことを考えさせられた。僕の人生にとって、この時間は、僕の人生に深みを与える時間だったことだけは間違いない。
再びタクシーで移動。今日は、お世話になったS藤さん一家と食事会をすることになっており、サイゴン川に面したオープンレストランに移動した。S藤さんがタツノオトシゴの入った焼酎、バナナの焼酎を持ってきており、飲ませていただいた。どちらもひね香がして、お酒を仕込むということがベトナムでは難しいのだろうなと思わせた。おそらく気温が高すぎるのだと思われる。そのため、発酵がどんどん進んでしまう。ようするに、あまり旨い焼酎ではなかった。
「タツノオトシゴ焼酎は、その名の通り、男性の夜の・・・と言われています。飲みすぎると夜困るかもしれません。」
などという。S籐さんも飲んでいるので、
「では、今晩S藤家に二人めの子供さんが仕込まれるかもしれませんね。」
とみんなに言われていた。S藤さんの奥さんのMさん、一人娘のHANAちゃんとの楽しい交流の時間はあっという間に過ぎた。
帰りににカフェによってアイスコーヒーを飲む。タクシーに分乗してホテルに戻り、爆睡。
子どもたちは夏休み(by 中国桂林通信さん)
中国の子どもたちは今夏休みです。しかし夏休みになって子どもの姿をもっと見るかと思っていましたが、あまり見ません。中国の子どもたちも家でゲームをする子が増えているようで、日本と同じです。超市で昼間にアイスクリームや牛乳を買っている子どもたちを見かけることがある程度で、中国の1人っ子政策の影響か、やはり子どもが大人の割りに少ないように思います。しかし今年は金の豚の年ということで、60年に1回の子どもが生まれるとても縁起のいい年ということもあり、産婦人科はとても賑わっています。嫁も来月の半ばが予定日ですが、病院に人がいっぱいいてうんざりしています。
妊婦とのグアム(初日)(by くおりぃさん)
今年の1月くらいから、4月にグアムに行こうと嫁さんと計画していたので、3月はじめくらいに旅行会社に申し込んで、グアム行きが決まって喜んでいたところ、妊娠が分かって、一時はキャンセルか!?と考えましたが、産婦人科で「日常生活と同じことをしてる分には大丈夫。海に入ったりして体を冷やすことを辞めておけば、丁度つわりのひどい時期でしょうからそれだけ覚悟しておいてださい」と、意外にもドクターストップはかからず、旅行を決行しました。
妊娠が分かるまでは、昨年と同様にジェットスキー・パラセーリング・シュノーケリングなどのアクティビティ三昧のプランを立てていたのですが、ドライブ・アトランティスサブマリン・プライベートビーチでのんびりのゆったりプランに変えての旅としました。
☆★どたばた家族♪お花見2007★☆(by ちょりりんまんさん)
また今年もやってまいりましたチチヤスハイパーク。
ここは夏には歓声が広がるウオーターパークになります。
さ・て!
今年は4人家族になって初めてのお花見です。
思い出せば・・・
昨年大きいお腹でゴーカートに乗り、出血したっけ・・・??
産婦人科の先生に怒られたなぁ・・・。
さぁ!行ってみましょう。ここは今年もとってもキレイ♪♪
産婦人科関連エントリー
新設の産婦人科
明日はricoの誕生日とsayが生まれて3ヶ月です。 私がsayを出産した産婦人科は今年の4月開院の新設産婦人科でした。 女医さんが医院長で、佐賀では話題の産科。 私の担当は旦那さんで男の先生だったんだけどね もちろん新設なんでクリニック内はキレイ ...

妊娠のリスク知ってほしい―現役産婦人科医が11か条の心得
... 川崎医科大附属病院(岡山県倉敷市)産婦人科医長の宋美玄さんが、思春期以降の男女に妊娠・出産に伴うリスクを理解してもらおうと ... 産婦人科に来る女性は既に妊娠している段階なので、早い時期から妊娠・出産に対 ...

子供が欲しい夫婦へ新たな道。
... 代理母に関しては少なくとも国内では日本産婦人科学会が自主規制しており、長野県の「諏訪マタニティークリニック」の根津院長が信念を持って行っているだけです。 ... もっとしっかりと産婦人科学会も国も受け止め、法制化を進めるべきなのです。 ...

産婦人科⇒⇒⇒歯科
... 今問題になっている産婦人科だよなー。。 こちらも、かつては近所に2軒はあったのよね。 片方は叔母から私、そして妹が生まれたところで、その後閉院したのかな。 それでももう1軒は最近まであったはずなのに、今は無い。。 ...

崖っぷちの産婦人科、日本の医療。
... 多くの案件を目にし耳にするにつれ、次第に病院が“たらい回し”をしているのではなく、産婦人科病院そのものが減少し、産婦人科医が足りなくなっているために起きている“受け入れ不能”状態であることが分かってきたのです。 ...
